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夕張メロン誕生物語






北海道中央部よりやや南西に位置し、三方を夕張山系の山々に囲まれた夕張市。明治21年、夕張炭田が発見されてからこの街の発展は始まりました。
当時エネルギーの主流であった石炭は「黒いダイヤ」と呼ばれていました。多くの労働者が全国から集まり、最盛期には10万を超える人々で街はにぎわっていました。
しかし、農業という面から見たときには、夕張は苦労の多い土地でした。火山灰質の夕張の大地に適した作物は限られます。山間地のため、北海道ならではの大規模農業も行えません。雑穀・豆類・アスパラ、長いもなどの野菜を細々と作るだけでは、生活は成り立ちませんでした。
このままでは夕張の農業が衰退してしまう。それでは、大変な苦労をしてこの地を切り拓いてくれた先祖に申し訳が立たない。どうにか農業で生計が立つようにならないか。
農家も、農協も、夕張の技術者や研究員たちも、策を求め、試行錯誤する日々が続いていました。
昭和32年のある日のこと、地区を回っていた、当時の夕張市の農業改良普及員がひとつの果物に出合いました。農家が自宅用に細々と作っていた、「スパイシー」という名のメロンでした。
元々夕張では、水はけの良い土地に適するメロンの栽培に取り組んでいました。大正12年頃から、数種の栽培を試みていましたが、十分な糖度が得られず開発はやがて立ち消えとなっていたのです。スパイシーは、その中の一種でした。
農家が差し出したメロンの見た目は、メロンというよりはウリでした。味も、砂糖をかけないと食べられないほどで、まったく甘みがありません。しかも果肉は赤色です。ネットの張った青い果肉のメロンが主流の時代、ネットのない、赤い果肉の味なしメロンに勝機などないように思えました。
しかし、農業改良普及員はそのメロンに可能性を見いだしました。スパイシーはどのメロンにも負けない、麝香のような甘く芳醇な香りを持っていました。赤い果肉も、見方を変えれば強い個性になります。あとは甘くさえなれば、十分夕張の特産品になる。農家も助かるのではないか。そう考えたのです。
それは、夕張の農業に、一筋の希望の光が差した瞬間でした。





昭和34年、有志が集い、メロンの交配試験が始まりました。専門技術員や農業改良普及員の力を借りてとはいえ、試験場のような設備や種苗会社の協力は一切なく、何もかも自分たちで行わなければなりません。当然、困難の連続でした。
なかでも、一番のポイントとなる、交配に使うメロンの種探しは難航しました。当時日本にあった42種類のメロンの中から候補に選んだのは、抜群の甘さを持つ高級メロン「アールス」でした。苦しい家計の中からお金を捻出し、メロンを買ってきたのもつかのま、市場に出回っているメロンから採れる種はすべて雑種で、原種しか交配には使用できないことを知ります。
しかし、原種はどこの産地にとっても命。門外不出で大切に守られ、分けてくれるところなどそうそうありません。全国の産地や試験場を訪ね歩きましたが、話を聞くどころか、門前払いを食らうことも少なくありませんでした。
それでも農家はあきらめませんでした。手分けして日本中を駆けずり回り、種を分けてくれるように頼み込み続けました。その熱意が通じ、ようやくいくばくかの種を手に入れることができたのです。

昭和35年6月、交配を行い、10個の実を収穫。翌年春から、初の栽培に取り組みました。ここからも、順調にことは進みませんでした。4月でも氷点下を記録する夕張の地では発芽さえも一苦労。せっかく発芽しても、寒さで苗が枯れてしまうのです。
農家は腹巻の中に種を入れ、自らの体温で種を温めました。ようやく芽の出た苗はビニールで二重にも三重にも覆い、北の地の厳しい寒さから守り抜きました。
必死の思いで育てた新品種のメロンは、夏に立派な実をつけました。ジューシーな赤い果肉、うっとりするような豊潤な香り。そしてとろけるような甘み。大衆にも届くようなメロンを、という作り手の予想を遥かに超えるメロンに農家は酔いしれました。
「最高のメロンができた。苦労が報われた」
誰もがそう思いました。みな、自信満々で夕張メロンを集荷場に持ち寄りました。
ところが、予想もしない事態が農家を待ち受けていました。





「重さが足りない」
「ネットがだめだ」
丹精込めて育てた夕張メロンが次々と捨てられていきました。重さやネットをクリアしても、容赦なく包丁が入ります。
「甘さが足りない」
1%でも糖度が足りないと、やはり捨てられました。
すべては、農業改良普及員が作っていた、厳しい出荷規格によるものでした。重さ、ネットの張りだけでなく、当時どこの産地もやっていなかった「甘さ」をも加えた革新的な規格の前に、捨てられた夕張メロンの山ができました。

当然、農家は猛反発しました。血のにじむような苦労をして作ったものを捨てられて、気持ちがいいはずがありません。
しかし、出荷規格が変えられることはありませんでした。厳しい規格は、農業改良普及員が200個以上のメロンを実際に食べ、お茶すらも飲めなくなるほどに舌を荒らして、確かさを検証して作ったものでした。そこまでしたのは、「どんなにいい品種を生み出しても、品質管理が行き届かなければだめになる」と考えたからです。メロンはフルーツの中でも、食べたときにそのおいしさが非常に明確にわかるフルーツです。だからこそ、消費者の立場でおいしくないと思うものは絶対に売ってはいけないと考えたのでした。すべては夕張の農家を、夕張の未来を思うがゆえの決断でした。
「品質管理こそが、産地の命です」
その言葉に、悔しさに震えていた農家は立ち上がりました。
「負けるものか。絶対に規格に合う、最高の夕張メロンを作ってやる!」
夕張メロン専用のハウスを建てました。美しいネットを出すためには光量の調節がものをいいます。日に10回以上シートの上げ下げを行いました。甘さを決めるのは温度管理。昼夜問わず、ビニールを開け閉めして温度の調整を行いました。畑に寝泊りすることさえありました。
一瞬も気を抜けない日々が続きました。
農家の思いは、メロンの質に表れました。姿、香り、味。どれをとっても他に類を見ない、完璧な夕張メロンが実ったのは、その年の8月の終わりのことでした。





生産組合と農協が一体となり、夕張メロンを作り続けていた昭和38年、夕張に大きな嵐が訪れました。炭鉱の閉山です。石炭から石油へのエネルギー革命を受け次々と炭鉱が閉山していく中、夕張の農家たちは生き残りをかけ、新たな挑戦を決めました。販路拡大のための東京への出荷です。
そのためには絶対に超えなければならない高いハードルがありました。輸送の問題です。夕張メロンはすばらしい味わいを持つ反面、熟してからの可食期間が極端に短いフルーツです。当時は東京まで連絡船と鉄道で一週間もかかる時代。どうやって運ぶのか、検討が始まりました。

まず試したのは、2日で届けることのできるトラック便でした。荷台を幌で囲って風通しを良くし荷を発送しましたが、なにせ北海道と違い暑い本州、届いた頃にはメロンは熟し過ぎ、黄色く変色していました。
次に試したのが国鉄の特別便です。海産物を運ぶ冷蔵コンテナをチャーターし、大量の氷で冷やして輸送しました。しかし暑さで氷が溶け、箱は水浸し。届いた夕張メロンは蒸れて売り物になりませんでした。
残された手段は空輸でした。空輸にかかるコストはトラックや鉄道輸送の比ではありません。夕張メロンが売れなければ間違いなく赤字という、とても大きな賭けでした。
夕張の期待と不安を乗せて飛行機は飛び立ちました。そして、収穫したその日に、無事夕張メロンは築地市場に到着しました。
活路を見出した。そう思ったのもつかの間でした。
「これはカボチャですか?」
夕張メロンの周りに集まった仲買人たちは、見たこともない赤い果肉を笑ったのです。どうにか東京まで運んだにもかかわらず、「カボチャメロン」とバカにされ、「こんなものはメロンじゃない」とまで言われる始末。ついた価格はなんと、静岡産の青肉メロンの半値以下。その事実を知り、みな真っ青になりました。





絶体絶命のピンチ。それでも、品質への絶対的な自信は揺らぎませんでした。「この味わいは、いつか認められるはず」。その一心で、厳しい出荷規格を農家は守り続けました。
農協も、その様子をただ見ているだけではありませんでした。夕張メロンのすばらしさをもっと広く知ってもらう方法はないだろうか。考え抜いた末にひらめいたのは、著名人に味わってもらう方法です。
「食べてもらえればわかる。味わってもらっておいしさを広めてもらおう」
今でいう、口コミでの宣伝効果を期待したのです。当時は読売巨人軍の黄金期。北海道でも、札幌・円山球場で巨人戦が行われていました。ここに、夕張メロンをホームラン賞として持ち込むことを決めました。多くの選手に夕張メロンの化粧箱が手渡されました。
この作戦が当たりました。ある選手が、「北海道の楽しみは海産物と夕張メロン」と話したことをマスコミが取り上げたのです。知名度は一気に上昇。東京の有名デパートがギフト商品として取り扱ってくれることになりました。これで一安心、誰もがそう思いました。

ところが扱いを初めて間もなく、農協にクレームが入ったのです。
「お客さまに届いた商品が腐っている! どういうことだ!」
調べると、店頭に並べられた夕張メロンが届け先に到着するまでになんと一週間もかかっていることがわかりました。夕張メロンの特性上、そんなに長く品物をもたせることはできるはずがありません。農協はデパートに提案しました。
「私たちのところから、直接お客様に送らせてもらえませんか」
いわゆる“産地直送”です。今日では当たり前に行われていることですが、当時は前代未聞の流通方法。デパート側は当然難色を示しました。「売る側の責任として、品物も見ずに売るなんてそんなことはできない。ましてやギフト用の高級商品です」
販売側としてもっともな反応です。しかし、夕張メロンを間違いなくお客様に届けるためには、この方法しかありません。農協職員は意を決して言いました。
「では、検査場にきてください。一度、私たちの検査を見てください」
昭和53年5月14日、午後1時。緊張に包まれた選果場に、デパートの担当者たちがやってきました。
ほどなくして検査が始まりました。ベルトコンベアの上を、箱に入った夕張メロンが次々と流れてきます。検査員は目の前に流れてきた箱の中から、1玉を手にとりました。十分な品質の夕張メロンに見えました。
ところが次の瞬間、検査員はその夕張メロンにためらいなく包丁を入れたのです。目の前の光景に、デパートの担当者はことばを失いました。しかし、それすらほんの序の口でした。その後も、次から次へと夕張メロンは切られていったのです。
ネット不足、熟し具合、すべてにおいてわずかでも基準に満たないものは容赦なく廃棄されました。見た目は合格でも、少しでも品質に疑いのあるものは切られ、糖度をチェックされます。品質への強い責任感、夕張メロンを手にするお客様に対しての誠実な姿勢。言葉で説明するよりも、その光景が雄弁に出荷体制の確かさを物語っていました。
担当者は確信しました。これならば、間違いのない商品をお客さまの手元に届けられる、と。
昭和54年、日本初の産地直送がスタートしました。こうして夕張メロンは、北海道の名産品のみならず、日本の夏の風物詩として広く認知されるようになっていったのです。






石炭なき後の夕張の街を支え、「赤いダイヤ」とまで呼ばれるようになった夕張メロンこと、品種名「夕張キング」。実は、品種の研究はいまだに続いています。しかし、「夕張キング」を超える新品種は現在も誕生していません。夕張メロンは、まさに天の恵みといえる産物だったのです。
ただ、独自の品種だけに、生産方法も確立されていませんでした。すべてをゼロから構築するだけでも大変なのに、「夕張キング」は非常に栽培の難しい品種。現在のように安定した産量と品質を保って出荷できるようになるまでには、並大抵ではない努力が重ねられてきました。露地栽培からハウス栽培への移行、日本で初めてのミツバチによる交配の導入。栽培方法は現在も進化し続けています。
その中で、「日本一厳しい」と評される品質検査の方法は変わりません。検査に最新鋭の機械の導入を検討した時期もありました。しかし、メロンのおいしさは糖度だけでなく、食べたときの舌ざわり、香り、うまみなどさまざまな要素によって決まるもの。長年夕張メロンを吟味し続けてきた検査員の、全神経を集中させた検査に勝るものはなかったのです。

また、もうひとつ変わらないものがあります。それは、食べる人の笑顔を求めて努力を続ける生産者の姿勢です。夕張メロン組合の組成から50年を経て、農家の世代交代は進みつつありますが、あくまで生産農家139戸の目標は、「消費者がよろこぶ夕張メロンを作ること」。食べる人の顔を思いながら、1玉1玉に愛情を込め、創意工夫を重ねて夕張メロンを育てていくその姿は、創成期の農家の姿勢となんら変わるところがありません。
夕張の農家の熱い思いと高い技術が実らせる“極上のフルーツ”夕張メロン。その輝きは誕生から今日まで、そしてこれからもずっと、あせることなく受け継がれ、続いていくのです。





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