昭和34年、有志が集い、メロンの交配試験が始まりました。専門技術員や農業改良普及員の力を借りてとはいえ、試験場のような設備や種苗会社の協力は一切なく、何もかも自分たちで行わなければなりません。当然、困難の連続でした。なかでも、一番のポイントとなる、交配に使うメロンの種探しは難航しました。当時日本にあった42種類のメロンの中から候補に選んだのは、抜群の甘さを持つ高級メロン「アールス」でした。苦しい家計の中からお金を捻出し、メロンを買ってきたのもつかのま、市場に出回っているメロンから採れる種はすべて雑種で、原種しか交配には使用できないことを知ります。しかし、原種はどこの産地にとっても命。門外不出で大切に守られ、分けてくれるところなどそうそうありません。全国の産地や試験場を訪ね歩きましたが、話を聞くどころか、門前払いを食らうことも少なくありませんでした。それでも農家はあきらめませんでした。手分けして日本中を駆けずり回り、種を分けてくれるように頼み込み続けました。その熱意が通じ、ようやくいくばくかの種を手に入れることができたのです。
「重さが足りない」「ネットがだめだ」丹精込めて育てた夕張メロンが次々と捨てられていきました。重さやネットをクリアしても、容赦なく包丁が入ります。「甘さが足りない」1%でも糖度が足りないと、やはり捨てられました。すべては、農業改良普及員が作っていた、厳しい出荷規格によるものでした。重さ、ネットの張りだけでなく、当時どこの産地もやっていなかった「甘さ」をも加えた革新的な規格の前に、捨てられた夕張メロンの山ができました。
生産組合と農協が一体となり、夕張メロンを作り続けていた昭和38年、夕張に大きな嵐が訪れました。炭鉱の閉山です。石炭から石油へのエネルギー革命を受け次々と炭鉱が閉山していく中、夕張の農家たちは生き残りをかけ、新たな挑戦を決めました。販路拡大のための東京への出荷です。そのためには絶対に超えなければならない高いハードルがありました。輸送の問題です。夕張メロンはすばらしい味わいを持つ反面、熟してからの可食期間が極端に短いフルーツです。当時は東京まで連絡船と鉄道で一週間もかかる時代。どうやって運ぶのか、検討が始まりました。
絶体絶命のピンチ。それでも、品質への絶対的な自信は揺らぎませんでした。「この味わいは、いつか認められるはず」。その一心で、厳しい出荷規格を農家は守り続けました。農協も、その様子をただ見ているだけではありませんでした。夕張メロンのすばらしさをもっと広く知ってもらう方法はないだろうか。考え抜いた末にひらめいたのは、著名人に味わってもらう方法です。「食べてもらえればわかる。味わってもらっておいしさを広めてもらおう」今でいう、口コミでの宣伝効果を期待したのです。当時は読売巨人軍の黄金期。北海道でも、札幌・円山球場で巨人戦が行われていました。ここに、夕張メロンをホームラン賞として持ち込むことを決めました。多くの選手に夕張メロンの化粧箱が手渡されました。この作戦が当たりました。ある選手が、「北海道の楽しみは海産物と夕張メロン」と話したことをマスコミが取り上げたのです。知名度は一気に上昇。東京の有名デパートがギフト商品として取り扱ってくれることになりました。これで一安心、誰もがそう思いました。
石炭なき後の夕張の街を支え、「赤いダイヤ」とまで呼ばれるようになった夕張メロンこと、品種名「夕張キング」。実は、品種の研究はいまだに続いています。しかし、「夕張キング」を超える新品種は現在も誕生していません。夕張メロンは、まさに天の恵みといえる産物だったのです。ただ、独自の品種だけに、生産方法も確立されていませんでした。すべてをゼロから構築するだけでも大変なのに、「夕張キング」は非常に栽培の難しい品種。現在のように安定した産量と品質を保って出荷できるようになるまでには、並大抵ではない努力が重ねられてきました。露地栽培からハウス栽培への移行、日本で初めてのミツバチによる交配の導入。栽培方法は現在も進化し続けています。その中で、「日本一厳しい」と評される品質検査の方法は変わりません。検査に最新鋭の機械の導入を検討した時期もありました。しかし、メロンのおいしさは糖度だけでなく、食べたときの舌ざわり、香り、うまみなどさまざまな要素によって決まるもの。長年夕張メロンを吟味し続けてきた検査員の、全神経を集中させた検査に勝るものはなかったのです。